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物語を紡ぐということは生きること『悲嘆の門』宮部みゆき

主人公は宅地開発された住宅街に家族で住む大学生。インターネット上の掲示板やSNSなどをチェックする情報管理会社でアルバイトをしている。ある日、同僚が新宿の街でホームレスが連続失踪していることに気づき、実地調査を始めるが行方知れずとなる。そのとき、ヒントとして浮かび上がってきたのが屋上に奇妙なガーゴイルの像が飾られている入居者が誰もいないビル。

時を同じくして北海道、秋田、平塚などで足の指など一部が切り取られる殺人事件が発生する。これは同一犯人による何らかのサインを含む連続殺人なのか、はたまた偶然の一致なのか。犯人の動機は何なのか、次の殺人は起こるのか、そして一体誰が狙われるのか。

 

上巻の半分くらいまで読んで初めて気がついた。これは「英雄の書」の続編である。もちろん、「英雄の書」を読んでいたほうが分かる部分があるけれど、予備知識がなくても十分楽しめる内容になっている。

人の物語とは一体なんなのか、いや、その前に人が操る言葉とは一体なんなのだろうか。言葉によって自分自身の思考を整理し、意見を表明し、他人との意思疎通を図ることができるものである。

一方で、言葉は刃となって他人をいとも簡単に攻撃して破壊することも可能である。昔は井戸端会議や仲間内だけでの話で済んだものが、ネットを利用して活字として残るようになったことで、過去の情報まで含めていとも簡単に誰でも簡単にアクセスできてしまうのだから。

 

人はさまざまな”渇望”を持っている。その大小や善悪は別にして、持っていること自体は普通の人間としては当たり前のことであろう。ただ、その渇望をどうやって具現化するのか、あるいは、自分の中で折り合いをつけて表面化しないで済ませるのか。

ここ最近の凶悪事件と呼ばれるものは、この”渇望”との折り合いをうまくつけられなかった人が実行しているのではないかと本作を読んでいて考えてしまうレベルである。

 

小説内で起こる、いくつかの殺人事件や痛ましい事故、これらは実社会でも本当に起こりえる事例ばかりであり、なんだか胸糞悪くなるような感じである。

そして、それを外部の第三者が勝手に「物語」をつけて無理矢理にでもこじつけ、自称専門家が登場してくるのもネット社会になった弊害面なのであろう。ネットの向こう側には人間がいるが、それらの人がすべて善意で接しているとは限らない、そんな簡単なことすら忘れてしまった、というか、気付いてない世の中なのだろうか。

私なんかはネット黎明期?と呼ばれるパソコン通信からやっていた世代なので、「ネットの向こう側には、素人を騙そうとしているプロが虎視眈々と機会をねらている」などと思っていて、ネットの発言は、世界中の人間はいつでもどこでも閲覧可能であるということを前提としているものである。

この辺はジェネレーション・ギャップというか、生まれて初めて触ったネットワークの世界がどういうものなのかによって変わるのだろうな、と思っている。

 

もし自分が他人の感情を文字として見ることができる「眼」を手に入れることができたら欲しいか?

と問われても、最初は欲しいと思うのだろうが、やっぱり不要である。

人はそれぞれ違うから楽しいのであろう。

そして、仮に自分自身が後悔ばかりして死にたいと思ったとしても、「生きる」ことが物語を紡ぐ側の人間として必要なことなんだ、と自覚しながら生きていきたい。

 

別の<輪>の物語は相変わらず読んでいても難しいけれど、生きていく、とは何かを改めて考える機会になりそうである。

 

 

悲嘆の門(上)

悲嘆の門(上)

 
悲嘆の門(下)

悲嘆の門(下)