【読書】「さざなみのよる(木皿泉)」歩みを止める人と進み続ける人と。人は人の中で生き続ける。
人は死ぬ、必ず死ぬ、これだけは避けられない。
絶対にバッドエンドしかないゲームみたいなものである。
主人公のナスミは43歳という若さで癌を患いアッサリと死んでしまう。
そのサバサバとした性格や表現は、決して何かを恨んだり、死に徹底的に抗おうとするのではなく、ただ淡々と事実を受け入れたままゆっくりと目を閉じていく。
入院中、ナスミが思う。
テレビで見た患者のようにふるまった。新米の女の看護師の笑顔も、テレビで見たのと同じだった。
彼女だってそれが正解とは思っておらず、他にやりようがないから、そんなふうにしているのだ。
みんなわからないのだ。まだ、死んだことがないのだから当たり前だ。
でも、わからないなりに、こんな感じかなと想像して精いっぱいやってくれている。
みんなで協力して、お芝居をしているような気持だった。
死ぬかと思った人はいても、実際に死んだ人はいない。だからみんな未経験なのは当たり前である。
しかし、自分の実体験を踏まえると、病床の本人も周囲も演技だったのかと言われると、そんな気もするし、そうじゃなかった気もする。分からない。でも、なんとなくナスミが言いたいことは分かる。
なんとなく、こう振る舞った方がいい、というような空気感とでも言おうか。そういうものに支配された気がしたのだ。
ナスミの死後、彼女の家族、友人、昔の会社の知人、などが彼女の死を知ってからの行動や心理がとつとつと語られる。
日常はそこにあり明日もきっと続いていく、と思っていたものが、気が付いたら無くなってしまう。そして、その日々は二度と取り戻すことはできない。
悲しいけど、これ、現実なのよね。
でも、死んだ人の時間は止まっても、生きている人の時間は続いていく。
いない人のことを時には思い出し、時には何か語りかけてくれるような気がしながら、少しのずつ前に進んでいくのだ。
自分が誰にどんな影響を及ぼすかを考えながら生きる必要なんてなくて、出会った人が少しだけ自分のことを覚えていて、でも、止まることなく生きて行ってくれればいい、そんな自分の死を少しだけ考えてみる一冊でした。
われわれ氷河期世代は「私は死んでも代わりはいるもの」と言われ続けた世代でもある。でも、本当は代わりなんていないのである。この年齢になると、いつ誰がどうなるか分からない。会えるうちに人に会っておかないとな。