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【読書】剱岳 線の記 平安時代の初登頂ミステリーに挑む(高橋大輔)

タイトルからして、新田次郎『劒岳〈点の記〉』を意識しているのが分かる。『点の記』で謎のまま残された、剱岳山頂に残されていた剣と錫杖頭はいつ誰が残したものなのか。その謎を探検家である著者が追いかける軌跡を綴ったもの。

剱岳は見る者を圧倒する。遠くから見ても際立って先が尖っているのだが、室堂を過ぎたあたりで間近で見ると「こんなの登れるのかよ...」と畏怖を感じつつ、挑戦してみたい、とも思わせるのです。

さて、そんな剱岳に残されていた剣と錫杖頭は平安自体のものと推測されていることから、果たしてどんなルートでなぜ登ったのか。仮説を立て、実際に剱岳に足を運び、過去の文献を紐解き、博物館で調べ、住民の話を聞き、また登る。

それを何度も繰り返し、少しずつ事実を手繰り寄せていくのは、パズルのようで実際に自分が追体験している気持ちになりワクワクした。謎が少しずつ解き明かされていくのは、推理小説を読んでいるよう。

もちろん、これは本と写真だけでも十分に堪能できるのだけど、これは、きっと立山剱岳を見たことがあるかないかで印象が変わるはず。

数年前、室堂から雄山を往復してから大日岳を含む大日三山縦走コースを経て称名滝までトレイルランで駆け抜けたときの記憶が鮮やかに蘇る。あのときの剱岳の迫力から、剱岳立山信仰の中で地獄扱いされていたのを少しだけ理解できた気がしたのです。

本書では、その剱岳が地獄であるという立山信仰にも切り込んでいくの。立山信仰とはそもそもいつ、どのようにできたのか。ファーストクライマーと時代はどちらが先なのか。そんな常識にも食いついて紐解いていく執念はどこから湧き上がってくるのか。

ちょっとずつ、ちょっとずつ見えそうになっては隠れ、また見えてくる。

これを読むと、『点の記』は小説としては名作であっても、その剱岳の位置づけや先人たちの歩みや文化的背景までは踏み込めてないと感じてしまう。

日本人にとって山岳信仰とはいったいどのようなもので、どんな意味があるのか。そして、なぜ山に入り、山開きを行っていたのか。

人間が生活したり通った道には、なんらかの痕跡が残っている。それは道そのものではなくても、地形や岩に付けられた名前にもあったりする。

日本人にとって、山とは神が住む場所であり、そこを開山することで、国家の安寧と安息を祈願するという山岳信仰。とくに普段から意識することはありませんが、なぜか山に行くと神聖な気持ちになるのは、その山岳信仰の考え方が意識の奥底に眠っているからかもしれません。

近代アルピニズムとは違う、日本人は古くから山と向き合って暮らしていたのです。さて、週末は山に新鮮な空気を吸いに行こうかな。