【書評】京都ぎらい(井上章一)
京都は奥が深い。
というか面倒くさい。
良く言えば、京都千年の歴史がある街。
悪く言えば、内にこもり外界を田舎者扱いする街。
今でこそ京都は観光都市として成立しているが、20年くらい前は海外はおろか国内の観光客も少なかったと記憶している。
が、京都ブームの一端を担ったJR東海のCM「そうだ京都行こう」シリーズは今見ても素晴らしい。あのCMを見て京都旅行に向かう人たちが続出した。
この時期のJR東海のCMは「シンデレラ・エクスプレス」も含めて神がかっていた。
バブル最強かよ。いいものは金が掛かってる。
二枚舌京都
そんな観光地京都に長年住む著者が、京都の面倒くさいところを描いた一冊。
そもそも『京都』とはどこを指すのか。
この定義が人によって違う。
昔から京都に住む人たちは『旧市街』を京都と呼び、それより外は『市外』と認識している。
タイトルの「京都ぎらい」の京都がすでに違うのだ。
著者は嵯峨野出身で宇治在住なので『旧市街』に住んだことはない。
中心の人から見ると田舎者なのである。
筆者もそれ自体は認めている。
嵯峨野は「むかし農家が肥溜めを回収に来ていた」地域だと初対面の著者をdisるのだ。ちょっとすごい。初対面の人間であろうと馬鹿にするのだ。
しかし、普段は市外の者は田舎者扱いしているくせに、都合よく嵐山や宇治も任天堂も京都と呼ぶ。
本来の定義から行くと『市外』なのに、である。
二枚舌ここにありである。
拝観料はキャバクラに消える
すっかり観光地化した京都の財政を支えるのは寺社仏閣の拝観料。
拝観者の立場からは、庭の整備や文化財の保存に費用が掛かるので支払うことは当然と理解している。
しかし、どうやらこの拝観料は無税で、かつ、祇園のキャバクラに消えているらしい。
袈裟姿のままキャバクラで酒を飲む僧が大勢いるのだとか。
ちょっと信じられないですね。他地域の人間としては。
こういうことを書いても、「は?何が悪いの?」くらいに思ってるのでしょう。
もう感覚が違いすぎて分かり合えない世界です。
謎のプライドと生きる
とまあ、京都人(旧市街)の面倒なところが、京都人(市外)から容赦なく突っ込まれている。
県外人としては「京都人は面倒」と思っているのですが、近い人からも思われている。これは決定的。
あのよく分からないプライドは一体どこから来るのでしょうか。
東京を中心とした新自由主義では家柄よりも自分の実力でのし上がった人が称賛される。下品な態度の人は嫌われるが...
その観点からは「その家に生まれた」ということだけで自慢する人たちが滑稽に映るの。
そのポジションにいるのは君の実力じゃないよね、と。
しかし、彼らも家に縛られて自由に人生を決めることができない苦しさもあるのでしょうか。知らんけど。
そして、それを跳ね除けるために、歴史や伝統を前面に出したいのでしょうが、そこはきっと分かり合えない世界。
なお、友人に住んでいる場所も家の歴史も聞いたらぶったまげるような人がいるが、いちいち何も言いません。
中途半端な人ほど家を自慢したがる、というのは京都に限らないだろうが、京都はめっちゃ面倒だということでしょう。
しかし、もうこうなったら、そのプライドと死ぬまで生きてほしいところです。
観光立国はどうなるのか
ついこの前まで外国人観光客が大量に押し寄せるオーバーツーリズムが話題になり、近隣のビジネスホテルまで高騰していた時代が懐かしい。
ここ数ヶ月は新型コロナウイルスの影響で、観光地にもホテルも閑散としているらしい。
まあ、ある意味ではいい気味である。今まで散々上から目線で見ていたのだから。
もっと落ち着いて、海外からのインバウンドに頼るのではなく、観光以外の収入源を見つけるべきなのでしょう。
と言ってもすぐには難しいのは間違いないですが...
祇園や木屋町のあの派手なネオンサインと下品な人たちが闊歩するような、どこにでもある安っぽい街にして欲しくない、と心から願うのでした。
京都、好きでした。